徒然日記: 2005年12月アーカイブ

今日、友人が訪問してくれたときに、お土産に持ってきてくれたロールケーキ。
今まで食べたことがない美味しいロールケーキだった。
こんなに美味しいと分かっていれば写真を撮っておくのだったが、既に家族の胃の中に納まっていた。
どこが違うかと言うと、中のクリームだ。
生クリームに、おそらくカスタードクリームを混ぜ合わせているのだろうと思うが、シュウクリームの生クリーム系ようなクリームを思い浮かべてもらえばいい。
とにかく、百聞は一食に如かず、一度食べてみることをお勧めする。

お店の名前は、「おかしのリジェール」。
住所:福岡県京都郡勝山町山野黒田871-1恵ビル1F
電話:0930-32-6100
ホームページもある http://www.citydo.com/prf/fukuoka/guide/sg/510000170.html

今年の一大事件と言えば、なんと言っても福岡西部沖地震と衆院解散総選挙です。
衆院総選挙で福岡11区は、武田良太氏と山本幸三氏の激戦の末、その差449票差と言う僅差で武田氏に軍配が上がった。しかし、激戦のお陰で比例区第1位で山本氏が当選し、結果として11区からは二人の国会議員を選出することになった。
山本氏の応援演説には、小泉首相が、歴代総理大臣では初の田川入りをし、市内中の交通が麻痺するくらいの人手で溢れかえった。
自民党の圧勝の中で生まれたのが、小泉チルドレンと言われる新人の先生方。
その中でも異色の議員として注目されたのが、比例区南関東ブロックの杉村太蔵氏。
本人も当選するとは思ってなかったし、父親も受かるわけないと思って寝たが、翌朝起きてビックリ仰天したと言う棚ボタ先生だ。
何かとマスコミを賑わせてくれた杉村氏だが、政治を分かりやすく語ったり、若い世代に政治への関心を持たせたと言う点では、りっぱに勤めを果たしている。
その杉村氏のブログを見つけたのでアクセスしてみてください。
http://sugimurataizo.net/
「自分に出来る使命は何か?」「国民の為に何が出来るのか?」、氏ならでは感覚で語ってくれています。
また携帯メールアドレスも公開して、意見交換や悩み相談もしています。メールを送って見たい方は、docomoのメールアドレスが掲載されていますの記事を注意深く読んでみてください。

母の闘病日誌(8)に続く
精密検査の結果がでた。
やはり肺の影は、癌の可能性があるが、まだ小さく悪性にはなっていないので、このまま定期的に進行状況を見ることになった。
しかし、その時の検査で、甲状腺にも影があることが判明した。
次に甲状腺の精密検査を受けることになった。

8月になって甲状腺の検査を受け、2週間後に結果を聞きにいった。
相変わらず患者さんが多く、予約をして結果を聞くためにも1時間半から2時間は待たされる。

結果は、肺と同じく悪性にはなっていないのでこのまま進行状況を定期的に見ると言うものだった。

母は、手術をすれば声を失うのではないかと気がきではなかったようだ。
手術の必要はないと聞いて一安心したが、肺と甲状腺の二つの爆弾を抱えていることには違いない。

母の体質は、癌が出来やすい体質のようだ。

この間、膀胱癌の手術跡も1ヶ月に1度、定期的な尿検査と内視鏡の検診を受けている。9月に入り、B病院で内視鏡検査を行った。
すると、恐れていたことが起こった。膀胱の内壁にアヅキ大の癌が再発していると言うのだ。
早速、T医師の薦めで再び膀胱癌手術をすることにした。
手術は1ヵ月後の予定だ。

10月に入り手術の予定であったが、医師の都合により、更に1ヶ月延ばし、11月29日が手術の日となった。
この1年半の間に4度目の手術だ。
今回の手術は、前に一度やった手術でもあり、今回は癌も小さいと言うことで、母も心配が無いらし。

そして、いよいよ手術の日。
今回は部分麻酔だから、意識もはっきり有る。
母は、いつものように手術台に乗って手術室へと運ばれていく。不安な様子はない。
そして手術が始まり、2時間が経過した。
無事、母の手術は、今回も成功した。

今後も、母は癌と闘い続けなければならない。
74歳の母は、出来るだけ延命が出来るように、巧く癌と付き合って行かなければならないと言った方が正解かもしれない。
世の中、スポット的に癌だけをを抑える医療技術や治療器具が臨床されている。
癌の進行を抗癌剤の投与なしで止められる日も、そんなに遠くは無いような気がする。

外科手術なしで癌を無くせる、そんな日が早く来てほしいものだ。

あるフォーラムで、ドラえもんの最終話「のび太君、宿題終わったかい!?」を紹介してもらった。
とても良く出来ているストーリーで感動した。
もちろん原作ではなく、ある同人誌が作成したものらしい。
この同人誌も作者(富士子富士夫氏)に許可を取って作成したものではないらしく、またこの同人誌をWeb上に紹介した方も、その同人誌に許可を取ってないそうだ。Web上で著作権について色々とやりあってるようだ。
私個人的には、こんな素晴らしいストーリーを紹介してもらって嬉しいのだが、今は亡き富士子関係者や権利を所有している方、ファンの方等は複雑な心境かもしれない。
直接の同人誌へのリンクは避け、同人誌を紹介したブログのURLを紹介するので、興味のある方は、そちらで探してみてください。
URLは、http://sqare.cscblog.jp/ です。

田川でお勧めの焼肉店と言えば「平松苑」。本場、韓国焼肉が食べられる店として通には有名。
最近も「トンちゃんマップ」を田川市の若手職員グループが作成したって新聞記事に掲載されてた店がここの店。
ここでの一番のお勧めは、なんと言っても"塩タン”。
しかし、BSE問題以来、良い塩タンが仕入れられなくなったということで、しばらくメニューから消えていた。かわりにブタタンが出ていたが、やはり牛タンには敵わない。
だが、久しぶりに行ってみると、なんと塩タン復活。
タンを炭火でさっとアブってレモン汁で食べるのが最高に美味い。
あとここのお勧めは、上ローストとバラ肉。
上ロースは、ステーキ肉と間違えるような厚みのある軟らかい上質肉を出してくれる。
最初は、上塩タンと上ロースで肉の旨みを存分に味わう。ロースやカルビはサンチュにコチュジャンを付け包んで食べるのもお忘れなく。あとは安くてタレにたっぷり漬け込まれたバラ肉を白ご飯と一緒に食べお腹を満たすのが、いつもの私の定番。
石焼ビビンバも美味いですよ。
場所は、後藤寺駅前の一方通行を平松方向に進入するとガードを潜って100メートル先ほど右側にあるので直ぐに分かる。
駐車スペースが数台分しか無いのが難点。

MK.jpg今日は、久しぶりに中間のMKレストランに食事に行った。ここのレストランは、チェーン店展開しているようで、博多のアクロス地下他九州各地にある。タイに行ったときも見かけた。
ここは、しゃぶしゃぶがメインに飲茶や麺類が全て食べ放題でドリンクとデザートがついて、おとな¥1680、小学生¥780と、とてもリーズナブル。更に海鮮が追加になる上のコースもある。
ランチタイムは更にお得なメニューもあるようだ。
こどもに腹いっぱい食べさせるにはもってこい。
今日久しぶりに行ってみて、牛肉がやわらかくて美味くなっているので、追加して牛肉を頼んだら、やっぱり元の筋がある硬い牛肉。
「あれ?最初だけ?」
でも、がっかりすることはない。ここは豚肉の方が美味い。我が家はもっぱら豚肉をお変わりする。
かなえは飲茶が好きで、水餃子やシュウマイ、春巻き、ニラ包揚、等をよくもそんなに揚げ物が入るねと思うくらいに食べる。
坦坦麺やワンタン麺も美味い。
以前のメニューには、ソフトドリンクとデザートの食べ放題まで有ったのだが、今はドリンク&デザートは、1品だけになったので残念だ。
かなえ、「明日の朝食抜きだからね。しっかり食べてよ!」
言われなくてもベルト緩めて食べていますよ!
MKレストランのホームページで場所は確認して下さい。

母の闘病日誌(7)の続き
無事、肺癌の手術は終わり、順調に回復していった。
2~3ヶ月は手術の痕が痛むと言われたが、10ヶ月経った今でも時々引きつったように痛むと言っている。
術後の最初の呼吸器内科の検診で抗癌剤治療を断った経緯は、前回お話したとおりである。
実は、この後、暫く検診をしないでいた。
ここのD病院は、非常に患者数が多い病院で、おまけに急患が入るとかなり待たされる。
前回の診察後、次回の診察日を決めようとしたところに入院中の患者の病変があり、ちょと待ってて下さいと言われ、待ったものの結局先生は戻れそうにないと言われて次の検針日を決めないまま帰ってしまったのだ。

こんなこともあった。
廊下に待合室がありそこに大勢の患者さんが椅子に座ってじっと待っているの。
ある患者さんは、9時に予約を入れていたにも関わらず11時過ぎても一向に診察が始まらない。
とうとうたまりかねた患者さんは、
「私たちは病人ですよ。健康な人でもじっと椅子に座って2時間以上も待たされたらきついのに、まして病人を2時間以上待たせるとはどういうことですか!」
ごもっともな意見だ。
本当に、ここの病院は患者が多くて、いつも2時間待ちは当たり前になっている。
対策をどうにかしてもらわないといけないですね。

「薬をもらわないから、C病院で検診してもらってたらいいや。」って思いから、次の予約はとうとう入れないままにしてしまった。
B病院は、1ヶ月に一度検診は、続けていた。

その後、順調に回復はしていったのだが、肺癌の手術から4ヶ月経過した7月、
B病院の副院長からお話したいことがあると呼ばれた。

「肺にうっすら影が見える」と言うのだ。

「えっ!まだ4ヶ月しか経っていないのに」

再度、D病院で検診することを勧められD病院に予約をいれてくれた。
久々にD病院に来た。相変わらず、患者さんが多い。
レントゲン検査の結果、やはり小さな影あるという。
後日、再度精密検査をすることになった。

elefantsu01.jpg今日、19:00より、ラ・ファミイユ・フクジュで宮川葉子&ザ・フライングエレファンツのコンサートが行われた。
最初のステージは、「YO☆KO Band」。TEEN'S MUSIC FESTIVAL で九州代表として全国大会に出場したときのメンバーが、脇を固める。ドラムの樋口君にギターの木村君がそうだ。
これにギターの大久保君(通称ミーボー)にベースはエレファンツのポールこと木村さんだ。
今年ビクターから発売されたミニアルバムから「六本木カフェロジック」やカドリードミニオンにいるチンパンジー「天才パン君」のテーマ曲「Super“パンくん”」等を熱唱した。
最後の曲は、TEEN’Sの全国大会に出場した曲「Just Like」で締めくくり。

elefantsu02.jpgその後休憩を挟んでいよいよエレファンツの登場だ。
筑豊のビートルズとして全国各地でコンサートを行ったのでご存知の方もいるだろう。
彼らは、こよなくビートルズを愛するコピーバンドだ。ただし、単なるビートルズのコピーバンドなら全国津々浦々沢山有るが、エレファンツは、オリジナル曲も沢山持ちその評価は、高い。オリジナル曲を収めた「コンフィデンツ11」は、11曲中9曲がTVCMに採用されている。
今このアルバムを入手するのは不可能で、幻の名盤だ。
彼らが全国へブレイクしたのは、92年に行ったニューヨークカーネギーホールでの公演がきっかけ。私も単身、ニューヨークまで応援に駆けつけた。
その後東芝EMIから発売された「BRICK ROAD」は、憧れのアビーロードスタジオでレコーディングすると言った懲りよう、このアルバムも今では入手が難しい。
この日もオリジナル曲「My heart to you」をオープニングにビートルズの定番曲「All my loving」「Please Please me」「Get back」「Can't bay me love 」、木村さんの一番好きだと言うWingsの「My love」、阿部さんの熱唱する「Imagine」等、アンコールを含め全22曲を歌ってくれた。
バンド結成から30年。今尚、そのビートルズをこよなく崇拝するそのポリシーと歌声は衰えることなく更に円熟味を増した。そして来年からは、また新たな挑戦をするそうだ。
この日最後は、YO☆KO Band が再登場し会場のみんなとHappy X'mas を歌ってコンサートは終了した。
久々の地元でのコンサート、大変盛り上がりました。お疲れ様でした。

もう直ぐクリスマス!
子どもたちは、サンタさんにどんなプレゼントをお願いしたのでしょうか?

私の家には、過去2度ほど、子どもたちが起きている時間にサンタさんが、来てくれました。
最初は、長男が幼稚園の年長、次男が年少の時です。

「おうちには煙突がないからサンタさんは来ないよね」
子どもたちは、心配です。
今年ばかりは、サンタさんを見てやるとなかなか寝つきません。
するとどうでしょう!
「メリー クリスマス!」と大きな声で玄関からサンタさんがやって来ました。
もう子どもたちは、おおはしゃぎ。
抱っこはしてもらうは、プレゼントはもらうは、記念撮影をするはでとても喜んでいました。

サンタさんが帰った後に長男が直ぐに玄関を出ます。
空を見上げる長男、でもサンタさんは、もう消えていました。

そして長男が言いました。
「サンタさん、おひげにゴムが着いちょった」「日本語もしゃべれるんやね」
そこで私が答えます。
「今のサンタさん若かったやろ。世界中にサンタさんの子分(弟子)がいっぱいおるんよ」
「ひとりでプレゼント配るの大変やけんね。今のサンタさんは、日本におる子分やね。」

その後、三男が生まれ、三男が2歳の時、またまたサンタさんが来てくれました。
今度のサンタさんは、外人です。英語でしゃべっています。
ときどきへたくそな日本語をしゃべります。
でも子どもたちは、近づくことが出来ません。
あまりにリアルです。

「わー、今度のサンタさん本物が来たね」
「なんて言いようか、わからんやった」

長男も次男も、小5までサンタさんに手紙を書いていました。
毎年、北海道広尾のサンタランドからクリスマスカード届きます。

もう、長男は高2、次男は中3、いつの日かサンタさんにお願いすることはなくなってしまいました。
でもまだ、小4の三男は、サンタさんにお願いしています。
先日、サンタさんに手紙を書きました。いえ書いたと言うよりは、打ちました。
時代は変わって、メールでサンタさんにお願いする時代なんですね。
メールの送り先は、やはり北海道広尾のサンタランドです。
さすがに英語でメールは打てませんからね。

今年も、もうすぐクリスマス。
サンタさん、世界中の子どもたちに夢を運んでくださいね。

母の闘病日誌(6)の続き
肺癌の摘出手術は、右肺上部1/3を切除するものだった。
開胸手術は、体に負担がかかるということで、手術時間は長くかかるけれど、開胸より術後の回復が早く痛みも少なくてすむと言うことで内視鏡を使った手術をしていただくことになった。
脇腹に3箇所穴を開け、内視鏡の画像を頼りにメスを入れると言うのだ。
相当なテクニックが必要なのだろう。
午前10時ごろに手術室に入り、手術が終わったのは午後の4時になっていた。麻酔時間を入れ6時間の手術である。この間、集中力を途切れさせること無く執刀をしていたのかと思うと敬服する。
過去の手術に比べ、時間も長く、ただただ無事成功を祈るばかりであった。

N2医師から術後に経過説明があった。
全て巧く行ったと言うのだ。
摘出した癌を見るかと聞かれたので、どんな病巣なのか見せてもらうことにした。
驚いた!
空気の抜けた肺の中に、ゆで卵と同じ位の大きさでドス黒くて魚眼のようなう薄気味悪い物体が入っている。

これが癌なのか!

麻酔が覚めるのを待って母の病室に行った。
よっぽど痛いのだろう、「痛い痛い」と唸っている。
少しづつ意識が覚めてきた母は、
「脇から背中にかけて痛い。今からこんなに痛いのなら私は手術はせんでいい」
「・・・?」
全身麻酔で手術を行った為、手術のことは一切知らないのだ。
まだ混乱しているようだ。

次の日の朝、病室を訪ねると母は、
「こんなに痛いなら、とても手術に耐え切れん。先生に手術はせんでいいと言った」
と言うのだ。
「お母さん、なん言よっと。手術は、昨日、終わっとうよ。成功したんよ。」
「そんなことかね。私はてっきり今から手術するかと思った」
やっと飲み込めたようで安心したようだ。

術後の経過も良く、5日間で退院させると言う。
他の病院もそうなのだろうか?直ぐにリハビリが始まる。患者を甘やかさない。手術の明後日から、食事もトイレも自分でさせる。
早く回復させるためと血栓を防ぐためには、とにかく体を動かさなくてはならないそうだ。

痛い痛いと言いながらも自分でトイレに行っている。
「早く元気になりたかったら、食事もしっかり食べないといけませんよ」
看護士に言われたとおりに残さず食べているようだ。

予定通り術後、5日間で退院した。
そのまま、C病院に戻ることにした。
C病院に着くと、看護士のみなさんが、
「お帰りなさい。ようがんばったね。」
と温かく迎えてくれる。

「みなさん、よろしくお願いします。」

一通りの検査をし、母は病室へと引き取られていった。
その後、副院長に呼ばれ、手術の経過説明をした。

「大変な手術をされましたね。しばらく私のところでお預かりし、回復させましょうね。」

有り難いことである。

その後、ここC病院での健診と、B病院、D病院の定期健診を続けることになる。

D病院での検診の時だ。
呼吸器内科のH医師から、今後の癌再発防止の治療について説明があった。
薬による抗癌治療を勧められた。

しかし、私は、断った。
1年前の癌手術の後、はっきり因果関係は掴めないが、母が薬の副作用でパーキンソンが出たり、うつ病になったりしたことを伝えた。
癌とは、今後も付き合っていかなくてはならないだろう。しかし、元気を失い、精神的な病になったのでは、闘うことすら出来なくなる。

H先生は、理解してくれた。
「では、定期的に検査だけは続けていきましょう。再発するかどうかは、分かりませんからね。もし再発したらその時に対処の方法を選びましょうね。」
母もそれで納得してくれた。

その後も、癌とは長い付き合いになるのである。

母の闘病日誌(5)の続き
心筋梗塞の手術も終わり、術後の経過も良好。
年が明けて、2005年の1月、肺の検査にD総合病院の呼吸器内科へ行く。

呼吸器内科のH先生、かなり若く見えるので最初は、インターンの先生かと思ったほどだ。
レントゲン検査だとやはり肺に影がある。悪性の腫瘍の可能性もあるので内視鏡で肺の細胞を採取し検査をすると言うのだ。

その後、呼吸器外科のN2先生(心筋梗塞のN先生とは違います)の内視鏡検査を受け、結果を聞く日がやってきた。

結果は、やはり肺癌だった。転移して出来たものか原発性のものかは分からないと言う。

事前に母に告知していいかどうかのアンケート調査を受けていたので、前回同様、前向きに対処するので告知してくれと伝えていた。
N2先生は、母と私に尋ねる
「肺癌の手術は、かなり負担がかかります。手術をしたからと言って、5年後の存命率は50%以上としか言えません。手術しないで抗癌治療を続けても5年後は生きていられるかもしれません。手術するかしないかは、ご自分で判断してください。」

尽かさず私は、聞き返した「母は手術に耐えうる体力があるということですか?」

N2先生は、
「おそらく今のお母さんの状態なら大丈夫でしょう。もちろん手術となると事前に体力検査はいたしますが・・・」
半年前の母であれば考えられないことだ。
よたよた歩き、目は虚ろで気力の抜けきっていた頃の母に比べれば、なんと幸いなことか、肺癌の手術に耐えられると言ってくれたのだ。

私は母に言った。
「お母さん。1年前は2ヶ月から半年しか持たんて言われたろう。今は、5年も生きられるって言われたばい。手術したら5年以上生きられるかもしれんて言われたろうが・・・。」
「5年も生きてたら、その内、癌は、ひとっつも怖い病気じゃなくなっとうよ。もう一度、頑張ってみるね」
母は、殆ど悩むことは無かった。肺癌と言う胸部を切開する手術への恐怖心は拭えない。しかし、今の母は、生きることに対しての希望のほうが強かった。

「あんたがそう言うのやったら、手術をしてもらおうか」

肺癌手術をしてもらうことになった。
あの時、心筋梗塞でN先生が肺の影を見落としていたら・・・
C病院に入院しないで体力が回復していなかったら・・・
おそらく、自覚症状が現れて肺癌が発見されていれば、母の手術は手遅れになっているかもしれないし、更に高齢になれば手術に耐える体力も無くなっていく。
母にとって、本当にラッキーとしか思えない。

その後、体力測定と、他に転移が無いか検査を受ける。骨髄と脳に転移があれば手術は、しないと言われたが、幸いなことに転移は無かった。

2005年2月、いよいよ肺癌の手術だ。
2004年3月から1年の間に、3回の大手術を受けることになった。

母の闘病日誌(7)へ続く

回転寿司と言ったら、リーズナブルな値段で寿司が食べられることで何処も盛況ですよね。

 私は、この辺じゃ、頴田の「一太郎」を利用します。
魚卸をやってるところが経営しているだけあって、ネタも新鮮だし、料金も安い。
ここは、夕方行くと、いつ行っても大概、1時間は、待たせられます。

 次に良く行くのは、トリヤス久山に映画を見に行ったついでによる「多吉」。
ここは、ほんとに美味い。そしてアレンジ寿司が豊富で、結構、面白い味に出会えるのが楽しみ。子供向けメニューも豊富なのが良いですね。
でも、ここも大抵1時間待ちですね。

 そして今回のスペシャル情報は、門司港レトロ近くにある「海人(KAITO)」。
ここは、あるメンバーオンリーのフォーラムで仕入れた情報です。
自称「日本一おいしい廻転寿司」なんだそうです。
また、ふく料理も専門だそうで、ホームページには、「市場の仲卸だからこそできるふく料理の醍醐味をゆったりとした和の空間でお楽しみ下さい。」とありました。

紹介者のコメントを拝借、

”ふくのしらこ”なんかは、もう~口の中でとろけてしまいます。(値段も安いので・・)

だそうです。
KAITOのホームページは、http://www.navitown.com/kitakyushu/kaito/です。

私も、一度行ってみたいと思いますが、もし先に行かれた方がいらっしゃいましたら情報をお待ちしています。

田川市カルタ大会

tomohiro
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先日の日曜日(12/4)に田川市総合体育館で、「田川市子どもカルタ大会」が開催された。
元々、育成会連合会主催での行事だったが、今は田川市の12月大イベントとして定着した。
今年も後藤寺校区から優勝チームがでた。2連覇だ。
相手チームの強豪を二人で挟み込み、封じ込めると言う、作戦勝ちらしい。
カルタも技が有るのだなと感心した。
優勝チーク他上位6チームが、1月22日に川崎町で開催される筑豊大会に進出する。

以下上位6チームの紹介。

優勝 後藤寺アディダス
2位 後藤寺レインボー
3位 アルファ白鳥B
4位 後藤寺チーターズ
5位 角銅原子ども会
6位 アルファ白鳥A

なんと後藤寺の強いこと。来年は他校区も必死でリベンジしてくるだろうな。

一昨日、久々に携帯の料金プランを見直してもらおうとdocomoショップへ出かけた。
最近、「ドコモダケ~」の宣伝がやたらと耳にするのでなんとなく行ってみた。
するとどうだろう案の定、11月から新プランが登場していた。携帯通信会社も低料金の価格競争が激しいようだ。
現在私はdocomoを利用して7年目、15%割引の適用だったのが、新プランの登場で21%割引適用になるのだ。
6%も安くなる。
行ってみてよかった。
行かない限り、“向こうからプラン変更しませんかなんて案内、来た事無いもんね”
と、思いつつ、帰宅するやいなやdocomoショップから会員向けのメルマガが届く。

「料金プラン見直しませんか?料金診断実施中、しかも『平日』にご来店・診断された方にはお米券、ドコモショップオリジナルグッズ等もれなくプレゼント・・・」

えっ!さっき行ったばかりなのに何もくれなかったゾ!

私が、見直しに行ったので慌てて全会員に料金見直しメールを送ったのかな?

なんて勘ぐってしまった。
携帯電話をご利用の皆様、料金プランの見直しはこまめにやりましょう。
携帯通信会社から勧められることはまず無いと思いますよ。

母の闘病日誌(4)の続き
ここまで母の闘病を整理しておくと

・A総合病院に二十数年来、更年期障害・大腸ポリープ等で3名の医師にかかっていた。

・H16年2月、突然の大量血尿でB個人病院にて診察、膀胱癌で余命2ヶ月から半年と診断される。A総合病院での再検査を促される。

・B総合病院で膀胱癌の手術、手術は成功し、命を取り留める。

・術後に認知症、パーキンソンの症状が現れ始め、体力的には杖なしの歩行も困難状態まで悪化。A総合病院にてうつ病と診断される。A総合病院の医師に精神科への入院を促される。

・C病院に入院しリハビリをスタート。食事療法で薬も減らしてもらい、3ヵ月後には体力もうつ病も回復した。

12月の最初の日曜日だった。12時ごろ病院から電話が有った。

「お昼の食事に出てこないので病室に行ったら、胸が苦しいと言ってました。今日は、副院長も休みで直に救急医療センター(以下D総合病院)へ搬送しました。そちらの病院へ向かってください」
そのD総合病院は、隣の市にある。大物大臣のグループ会社が経営する個人病院なのだが、県の救急医療センターを併設で運営している。

私が病院に着いた時は既に1時を回り、C病院から付き添ってくれた看護士が私を待っていてくれた。既に検査が始まっていた。
暫くして担当のN医師が説明に来た。心筋梗塞の疑いがあるので直にカテーテル手術を行ったほうが良い。そして手術の危険性が数パーセント、手術が巧くいっても合併症を起こし脳梗塞などを起こす危険性が数パーセントと説明が始まる。同意してくれと言うのだ。

私は躊躇した。

なぜなら、私の友人のお母様がここの病院で院内感染を併発し、病院側ともめている内に、病院の退室を余儀なくされ、結局併発した肺炎が原因で亡くなるいう不幸に見舞われていたからだ。この事は週刊誌にも載ったし、担当医を訴えて裁判沙汰にもなった。

私は単刀直入に聞いた、
「この手術の危険性は分かりました。ところでその数字はいったい何処の数字なのでしょうか」、
「全国平均です」、
「では、D病院の数字はどうなのでしょう。そして大変失礼ですが、N先生のご経験と成功率をお聞かせ下さいませんか。生死に係わる問題ですから」
「ここの病院は全国平均より低いです。そして私は、今まで失敗の経験はありません。」
「分かりました。しかし先生、もう少し時間を下さい。母の主治医とまだ連絡が取れていないのです。主治医の先生にも相談したいのです」
私の警戒心はまだ拭えてなかったからだ。

直にC病院に電話を入れ、母の症状と副院長に連絡を取りたいことを伝えた。
休暇中でなかなか連絡が取れなかったようで1時間ほどしてやっと携帯に連絡が入ってきた。
母の症状を伝え、私がいまいち病院を信頼していないこと、生死に係わる手術の説明を他の患者も居るロビーで、それも立ち話で聞かされたこと等、不安材料を伝えた。
すると副院長は、「私の病院はD病院を全面的に信頼しそこへ搬送しています。少しでも早く手術したほうが良いので立ち話をされたのではないでしょうか。木村さん、手術を受けられた方が良いですよ」
と言ってくれた。
副院長にそこまで言っていただければ、あとは何も躊躇することはない。

「N先生、先程は大変失礼なことを申しました。先生を全面的に信頼して手術に同意します。どうぞ母を宜しくお願いします」
早速、母の手術が始まった。あとで聞いたが心筋梗塞は、早ければ早いほど、成功率が高いそうだ。
手術は無事に終わった。
あとは1週間以内に合併症が併発しなければ大丈夫だ。
術後にN医師に呼ばれ、手術の経過説明を聞き全て巧くいったことを告げられた。
しかし、そこで医師はレントゲン写真を見ながら、
「肺に少し影が見えます。念のため退院したら肺の検査も受けてみたらいかがでしょう」
と気になることを言った。

母は、無事1週間で退院できた。
C病院の素早い対応とN医師のお陰で一命を取り留めた。
もし、11月の時点で母をC病院から退院させていたら、私たちでは発見が遅れ、母は自宅で亡くなっていたかもしれない。ほんとに強運の持ち主だ。

退院後、一旦自宅に帰ったが直にC病院に再入院させていただいた。ここに入院させていただくのが一番安心なのだ。母もここの病院に居たお陰で生きていられたとそう思っている。

副院長に肺に影があるので再検査を薦められたことを話すと、ここの病院でも定期的にレントゲンは取っているが気が付かなかったと恐縮していた。
それくらい見落としがちな影なのだろう。
ところがその再検査でとんでもない事が発覚した。

母の闘病日誌(6)へ続く

以前投稿した無臭にんにく球の記事を覚えているだろうか。

今日、本当に送ってきた。


ninniku01.jpgninniku02.jpg


一袋に琥珀色のニンニク球が200粒入っている。
母と妻の分含めて3袋を送ってもらった。
一日3粒が目安なので、1袋に2か月分が入っている。
継続して希望の方はFAXを送ってくれと書いている。
無償でずっと送ってくれると言うから驚きだ。ほんとにありがたい。
ニンニクには、アリシン、アホエン、アリシン、アリチアミン、スコルジニンと言った有効成分が含まれていて、加熱や擦り下ろし、炒める等、調理法によってその主成分が異なってくる。
何れも健康に有効な成分である。
このカプセルは生ニンニクを閉じ込めてあるのでアリシンを多く含んでいる。

母の闘病日誌(3)より続き
母が入院したのは、老人病棟で認知症の患者さんもかなりいるようだ。その病棟だけで40~50人ほどいらっしゃるのだろうか。
入院するに当たり、母の抵抗は無かった。母も知ってる先生であったし、「ここに来たら、歌をうたったり、散歩したり、花を植えたり出来るよ」「面白い人達もいっぱいいるよ」と先生が声をかけてくれた。

母のリハビリがスタートした。

一日の日課は分からないが、たまに覗きに行くと、軽いストレッチや、カラオケ大会、お誕生会などをやってくれていた。3食、決まった時間に食事が取れるのも母は気に入ったようだ。
部屋は4人部屋で、人との会話をあまりしなくなっていた母だが、1ヶ月もすると他の患者さんのことをよく話してくれるようになった。
顔のむくみが消えた。

2ヶ月経った頃にはよたよた歩いていたのが、前のようにまっすぐ歩けるようになった。会話も全く以前のようにとはいかないが、かなり回復している。

3ヶ月経った11月である。もう完全に回復しているように思える。
私は母に尋ねた「お母さん、もう前みたいに元気になったみたいやけど、もうそろそろ家に帰るね」
すると母は「(病院に)帰れって言われれば帰るけど、あったたかくなる春まで居ても良いような気がする」
なんと母はすっかり病院の生活が気に入ってしまったようだ。ここに居れば一日中話し相手もいるし、3食まかなってくれるからである。
家に帰れば、ヘルパーさんが手伝ってくれるものの、買い物も料理もしなくちゃならない。
しかしここは老人ホームでもグループホームでもない、病院だから、それは無理かなと思いながら、診察のあと、副院長に相談してみた。
「思ったより回復が早くて良かったですね」
「先生ありがとうございます。全く以前の母に戻りました」
「先生、相談があるのですが、母が春先までここに居たいって言ってるんです」
「病院を気にいると言うのも困った話ですが、良いですよ。他の病院みたいに追い出したりしませんから」

実は、この時の病院の配慮が、2度目の母の命を救うことになるのだ。

母の闘病日誌(5)に続く

母の闘病日誌(2)より続き
手術後、母は、毎日通っていた私の会社には来れなくなった。
術後の経過は良く、順調に回復したのだが、気力がうせてきて、毎日テレビを見ての生活に変わっていった。
術後1ヶ月もすると、明らかに言動がおかしくなり被害妄想が出るようになった。
内科にかかっていた先生が、脳のCTスキャンを取って調べてくれると、認知症が進んでいると言う。
2ヶ月たった頃には、体力も衰え、パーキンソンが現れ手が小刻みに震えだす。
この頃には、目は虚ろになり、何一つ自分でしようとはしなくなった。
歩行にも障害が出始め、杖をつかないと歩けないようになってしまった。

母は、元々、耳鳴りや尿が出にくい、血糖値が高い、大腸のポリープ手術等、ここの総合病院には、定期的に通い、3名の医師に付いていた。
何れも確たる治療は出来ず、更年期障害と言うことで薬を服用しながら症状の進行を抑えている状態だった。それぞれの医師から薬が出るので、大量に服用を続けていた。

それに加えて、今回の膀胱癌手術で、更に抗癌剤の服用が増えたわけである。

パーキンソンの症状が出始め、明らかに体力も気力も衰え始め、精神的にもおかしくなっていく母を見かねた私は、思い切って内科の先生に告げる
「先生、薬が多すぎませんか」
担当医は、「それぞれの先生方が必要と思って薬を出していますからね」「かなり強い薬も服用しています。それを少し減らしてみましょう」
それから2週間経った頃、母の手の振るえが少し収まってきた。
私は、やっぱり薬が強すぎるんだと確信した。
次の診察のとき内科の先生が私に進めてくれる

「お母さんはうつ病です。ここの病院には精神科がありません。思い切って精神科のある病院に入院させてあげた方がいいかもしれません」

この先生の助言に感謝している。

このままここに通院しても回復しないよ、と暗に促してくれたのである。
既に癌手術から4ヶ月が経過していた。

私は精神科のある病院に相談に行った。
そこの副院長に、今服用している薬をもって母を診察に連れてくるようにと言われ、数日後、再度病院へ行った。
総合病院の内科の先生が、それまでの母の経過を克明に記した手紙を書いてくれた。
それを見ながら、
「お母さんは、色んな病気を持っていらっしゃって、今まで色んな薬を次から次に試していますね。確かに薬が多いようです。」
「私のところに入院させてあげなさい。出来るだけ薬を減らすよう食事療法してあげましょう」
ベットの空きがあるまで待ってくれと言われ、ようやく母を入院させてあげられたのは、9月始め、既に癌手術から半年が過ぎていた。

ここから母の驚くような回復が始まった。

多彩な才能に遭遇

tomohiro
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 昨日、造形作家“和田博康”氏のアトリエを訪ねた。
氏は木や和紙など自然の温かみが有る素材から、その辺に転がっているような空き缶等無機質なものまでありとあらゆるものを使い造形していく。そしてひとつ一つの作品に魂を吹き込んでいく。その作品たちひとつ一つが、まるで今にも語りかけてくるようだ。
 実は和田氏から
「自分の作品たちは、今までどんな依頼が有っても手放す(売る)ことはしなかった。でも今の世の中何か変。私の作品が世の中に訴える機会を何か作ってくれないか」
と言う、いささか難しいオファーを頂いたのである。
 氏とは初対面であったが、意気投合してしまいなんと3時間半もそこに居座ってしまった。
その中で一番驚いたのは、氏の次女の“わだ まゆ”さんの新風舎から出版されたポストカードブックを手渡された時だ。(2次利用されないようあえて画像は低解像度、照明の反射がある状態で掲載しています)
blackbird01.jpgblackbird03.jpg

カードを開いた瞬間、身震いした。
ゾクゾクっと背中に電流が突き抜けたのだ。
なんだこのカードから伝わってくるメッセージは!

描かれているBlackBirdは、飛ぶことが出来ない鳥なのだ。
大空に飛ぶ鳥たちを寂しそうに見上げている。
ひとりで寂しくうなだれている。
全16枚からなるその作品は、全てメッセージ色が強いが淡い色使いと曲線のみを使用した優しいタッチで描かれている。

また後日打ち合わせをすることにしその日は、和田氏のアトリエをあとにした。
次の日(今日)、早々に私は、わだまゆさんに会いに行くことにした。

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